米沢探訪

米沢の市民運動


 米沢市は人口約7万9千人の小さな町ですが、平和と民主主義を求める様々な団体が活発な運動を地道に続けています。
◆ 【憲法9条を護る米沢市民の会】2005年に憲法9条を守る一点で幅広い市民・団体によって結成された超党派の団体です。憲法記念日など節目の日のスタンディングや憲法学習会を継続しています。
◆ 【平和のつどい実行委員会】女性が中心となり、平和憲法を守り戦争に反対するスタンディングを毎週続けています。
◆ 母親大会実行委員会】「生命(いのち)を生みだす母親は 生命(いのち)を育て 生命を守ることをのぞみます」をスローガンに、毎年全国・県・米沢地区の大会を開催しています。

解体される旧市役所


◆ 一面の田んぼだった金池地区の土地区画整理事業は1967年に始まり、1970年に市役所が移転しました。移転の当初の目的は、市役所移転後の市中央部の商業振興、金池地区への公共機関の集中整備と宅地造成などでした。当時の人口は約9万3千人。高度経済成長の真っ只中で、新しい市役所を見上げて誰もが明るい未来を確信していました。

◆ 新市庁舎は、本来独立すべき市議会が庁舎内の多目的室に入れられ、傍聴席も狭く議場の半分しか見えません。庁内は今後の人口減、職員減を見越して必要最低限の執務スペースで、食堂もなくなり、昼時はコンビニに並ぶ市職員の姿が見られます。廃墟のようなシャッターが連なる市中央部は、商業振興などの展望もなく、寂しい現実が目の前に広がります。

たまに訪ねてみては……詩碑3基


◆ 野口雨情(1882-1945)は「七つの子」「赤い靴」などで知られる詩人・童謡作詞家。この碑に刻まれた「羽前米澤 雪どけ待って 梅桃櫻そろって咲く」は、1926(大正15)年に歌手・佐藤千夜子、作曲家・中山晋平と共に米沢に来訪した折の作品。1992年中村清治氏建立。揮毫は太田清栁。上杉神社境内にも、別の詩の野口雨情詩碑がある。

◆ 森英介(本名佐藤重男1917-1951)は、終戦直後の1946年、米沢で雑誌「労農」を創刊。地方からの社会改良をめざす全国的な青年運動の一つに位置付けられるが、占領政策の転換の影響からか挫折し、わずか3号で休刊。その後放浪を経て、勤務先の山形市の印刷会社で自ら活字を組み、詩集「火の聖女」を自主出版。高村光太郎をして「これほど魂のさしせまつた聲を未だ嘗てきいたことがない。私はおそろしい詩集を見た。」と言わしめたが、刊行される直前に急死。享年33。「北山原」の詩が刻まれたこの詩碑は、「火の会」(会長・九里茂三氏)が1998年に建立。(参考論文 森岡卓司 雑誌『労農』研究 ―占領期山形における地方文化運動の再検討のために―,2017)

◆ 「青春とは人生の或る期間を言うのではなく 心の様相を言うのだ」 「人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる」で有名なサミュエル・ウルマンの詩「青春」の碑。これを訳した岡田義男(1891-1968)は元山形大学工学部講師。岡田の訳詞は友人の森平三郎(1891-1980 元山形大学学長)によって紹介され全国に広まった。1990年、工学部80周年記念事業として米沢工業会が建立し、山形大学に贈呈された。

近代へのエポックの舞台


中央1丁目の米沢ボウリングレーンズは、米沢の近代化における数々の出来事の舞台になった場所です。
◆1908(明治41)年 旧藩財産を管理し、その後銀行になった米沢義社が新築移転(1916年両羽銀行と合併)
◆1919(大正8)年4月 米沢義社跡地に松岬劇場が芝居小屋として開館
◆1920(大正9)年6月 県内初の労働組織「米沢労友会」の発会式が開かれる(労働組合というよりも、労働者の親睦会のような組織だったといわれる)
◆1922(大正11)年9月 全国的な護憲運動の中、憲政東北一道十県連合大会が開催。加藤高明、河野広中らが演説
◆1930(昭和5)年9月 左翼劇団「黎明座」の旗揚げ公演。1週間後に治安維持法違反で検挙(2年後有罪判決)。「米沢共産党事件」とも呼ばれる。(実際には、当時米沢に党員はいなかったという(後藤太刀味氏)
◆戦後は映画館「セントラル劇場」、その後「国際劇場」「シネマ旭」と名前を変え、1967年の閉館後、米沢ボウリングレーンズが開業、現在に至っています。

いろんなことがあった、今は駐車場


立町の丸万旅館の北に、山形証券米沢営業所と駐車場があります。
1889年(明治22年)、当時米沢で伝道をしていたメソジスト教会宣教師によって、ここに米沢英和女学校が設立されました。付属小学校、夜学校も設置され、その後中央官僚になる岡田文次や社会主義者・河上清などの人材が学びました。しかし資金難となりわずか6年後に廃校となりました。
1917年(大正6年)に映画館の遊楽館が開館。1932年(昭和7年)には米沢で初めてのトーキー(有声映画)が上映され、戦後も筋向かいにあった米沢劇場とともに大いに賑わいました。

ここは学校でした

大沢小学校跡(1966年の児童数66名、1993年廃校)

第六中学校跡(1966年の生徒数493名、2004年移転)と愛宕小学校跡(1966年の児童数97名、1991年移転)

1955年、様々な紛糾の末に米沢市と周辺10ヶ村の合併が完了しました、合併当時、米沢市には小学校が19校、中学校が11校、さらに分校が17校、冬季分校(水窪、大平)もありました。合併時の「小中学校は独立校として存置する」とした約束(「合併方策要綱(1954年)」)は今はどこへやら。これから現在18ある小学校は8校に、7つの中学校は3校に統合される予定です。

旧大沼デパート

自己破産した大沼デパートと、1967年頃の門東町(クリックで拡大)

江戸時代から続く老舗百貨店・大沼は、2020年1月27日自己破産しました。米沢店はすでに2019年8月15日に閉店し、サテライト店として営業していましたが、破産をもって完全に営業を終了しました。この地に大沼が出店したのは1970年。その後周辺に大型店が次々と開店し、正月初売りの歩行者天国は身動きが取れないほど賑わいました。

コレラ神社

田塚神社(窪田町小瀬)

春日神社(窪田町東江股)

江戸時代の元治年間から明治時代前半まで、置賜は度々コレラが流行しました。コレラ菌の発見は1883年ですから、当時の人々は原因も対応も分からず、大変な脅威でした。米沢にはコレラを大明神や菩薩に祀り上げた碑があります。(上の2つの他、コレラ碑が赤芝羽黒神社、徳町に疱瘡の祠、山梨沢には天然痘の碑があります。「米沢市史・民俗編」より)

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